角筈のサムライ

夜の街並み

西新宿と新宿3丁目の一帯がその昔、角筈(つのはず)と呼ばれていたことを知っている人も今は大分少なくなった。淀橋浄水場がなくなり、その跡地には摩天楼が立ち並び、今では新都心と呼ばれている。新宿も少し路地に入っていくと今も昔の面影を漂わせる飲み屋や街並みがあるところがある。西口にある思い出横丁がその一つである。

通称小便横丁。戦後の闇市を起源とする昭和の香り漂う飲み屋街である。その雑踏は未だに戦後の力強い日本人の努力と息吹きがほのかに感じられる。その英会話スクールはその小便横丁を抜けて、青梅街道を渡ってすぐのところにあった。

姉川は焦っていた。例の会議が明日に迫っているからである。会議での発表などはどちらかと言うと得意な方であるが、相手が外国人となると話は別である。最近合併した会社には外国人が多数在籍し、日々の業務でも大分英語のメールが増えてきた。合併が決定してからはその位は覚悟していた。受験英語経験者としてその程度は切り抜けられると思っていたからである。しかし、会社からの英語に対する要求は留まるところを知らない。

この年になってTOEICの受験を命じられ、そろそろ逃げられないなと思っていたところ、追い打ちをかけるように複数の米国人を含む、管理職会議の定例化が決定した。全て英語ですすめる会議になるとのことである。まずいことに管理職会議の出席者の一人は姉川の直属の上司で、先月アメリカから赴任して来たばかりの米国人である。

冗談じゃない。日本の市場の事を赴任したばかりの米国人に何がわかる?と思いながら、泣く泣く姉川は新宿の英会話スクールに駆け込んだ。事情を話して、担当のアドバイザーに頼み込み、レッスン内容は会議での英語一本に絞り込んだ。

以後、ここ一週間は毎日会議の事前練習に明け暮れている。ところが所詮付け焼刃の英語である。質疑応答までを考えると、どう考えたってうまくいく気がしない。外資系企業となってしまった会社の社員の悲哀である。直属の米国人上司に「使えない」レッテルを貼られてしまうと、血のにじむ努力で獲得したポジションを追われかねない。事実そういった事例を自社の中で時々見聞きするようになってきた。姉川にとって彼らはまるでGHQである。

レッスン後、こんな英語力では明日はクビかな、と自嘲的な笑みを浮かべながら姉川は受付に戻ってきた。受付の女性はいつものように微笑み、IDカードを差し出した。次のレッスンはまだ予定が立たないから・・・と予約をせずに帰ろうとした時、姉川は女性に呼び止められた。

「姉川さん、たしか明日が会議でしたね。頑張ってくださいね!」

「いやー、気が重いです。生きてたらまた来ますよ」

「きっと大丈夫ですよ、姉川さん。そうだ!会議で役立つ英語の表現、教えてあげましょうか?」

「何ですか。気休めならもう十分ですよ。」

「気休めじゃないです。魔法の一言があるんですって!」

「なんですか?魔法の一言って。」

「会議で相手の質問が聞き取れない時はこう言ってください!」

Thas’s a good question! Let me get back to you after I've had a chance to look into it thoroughly.

「ははっ。それはいいですね。なんでも使える。」

「そうなんですよオ。結構便利ですよオ。でもね姉川さん。最後は気合いですよ。気合い。アメリカ人に負けちゃ駄目ですよ!」

「ありがとう。なんか乗り切れそうな気がしてきましたよ。」

姉川はスクールのエレベーターを降り、試合前のアスリートの様に頬を叩いた。やることは全てやった。たかが英語の会議。景気づけに一杯やるか、と思い姉川は小便横丁に向かって歩き出した。

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