mojito

そのバーは、音楽を楽しむバーだった。入口に小さな看板がひっそりとある程度。質素なエントランスで注意しないとその存在にすら気づかない。小さいながら重厚な木製のドアを開けると店内は入口からは想像できない程広い。剥き出しの真空管のアンプを通して巨大なタンノイのスピーカーから七〇年代の音楽が流れている。バーカウンターの中も驚くほど広く、グラスが整然とディスプレイされ、バーテンダーは広々としたスペースで忙しく動いている。こういったバーでは珍しく天井高も裕に3メートルはあろうか。客も一般的なビジネスマンよりもショービジネスやデザイン関係の仕事をしている人の方が多い。

今日は3年間通った英会話スクールの最終レッスンの日だった。今日子は仕事で英語を使う機会は全く無かったが、3年前にマンションのポストに投函されたスクールのチラシを見て英会話を始めたのだった。チラシには「だってあの時やるって言ってたじゃない」と書かれていた。

三十代後半。40歳になるまでに何か一つ身に付けたいとは思っていたが、こんなに続くとは思わなかった。絶対に行くことはないと思っていたスクールのイベントにも、受付の女性に勧められて勢いで参加した。思いがけず刺激になったイベントには、その後も時々参加。最後に参加した夜桜のイベントは桜こそ散っていたがとても華やかで心から楽しめた。

英会話は思ったよりも高いレベルまで上達したと思う。当初の計画よりも時間は掛かったが目標を達成した事には満足だ。振り返ってみると一つの事をこんなに続けた事は今までに殆どない。小さいころ習っていたピアノですら1年で辞めてしまった。今日子は、そんな自分にご褒美として、恵比寿の住宅街にあるバーの扉を開け、一人ボストンクーラーを飲んでいた。

音楽が流れている。
キャロル・キング
“You’ve got a friend”

「お待ち合わせですか?」バーテンダーの女性が話しかけてくる。

「いえ。一人で打ち上げです。」

「へえ? 何か良い事でもあったんですか?」

「ええ。一つ目標を達成しまして。ささやかな祝杯です。」

「そうですか。おめでとうございます。どうぞごゆっくり。」

バーテンの女性は深入りすることなく、心地良く微笑んだ。

英会話を終えた今日子は、さて、これからどうしよう?とグラスを口に運びながら自問を始めた。今まで習慣のようにスケジュールを調整して何とか通った英会話は終わった。これからは自由に時間が使えるはずである。今までのスケジュールを手帳で見返しながら今後の事を考える。思えば仕事もプライベートもこまごまと色々な事があり、ある意味英会話が良い気分転換になっていた事に気づく。

「さて、これからどうしましょうかね~」

グラスを傾けながら今日子は一人つぶやいた。

音楽が流れている。
ギルバート・オサリバン
“Alone again”

せっかく英語を身に付けた事だし、久々に海外旅行にでも行こう。友人を誘って、前から行ってみたかったヨーロッパの国々を電車で回るのはどうだろう?海外へ思いを馳せる。今は忙しいけれど、仕事も繁忙期を避ければ休みが取れる。溜まった有給もある事だし、たまには長期休暇も許されるはず。

グラスを飲み干し、この店の定番らしいモヒートを注文する。

音楽が流れている。
イーグルス
“Hotel California”

そうだ。カリフォルニアもいいかも。
モヒートがバーテンダーから差し出される。鮮やかな緑色のミントの葉がいかにもフレッシュである。炭酸が静かにパチパチと音を立て、祝杯には丁度良い。芳醇なラムの香りとミントの香りが鼻をくすぐる。今日子は一口目のモヒートをゴクリと飲みこんだ。豊かな味わいに、酔いがまわる。

音楽が流れている。
サイモン&ガーファンクル
“Bridge over Troubled Water”

旅行に行って・・・。そしてまた何か目標を作ろう。何しろ自分には無理と思っていた英語を目標レベルまでマスターしたのだ。3年間も地道にスケジュールを調整して通い詰めたのだ。やろうと思えばきっと何だって出来る。

カウンターに無造作においてある麦チョコとナッツを頬張り、モヒートで流し込む。英会話が修了した大きな達成感とちょっぴりの寂しさがモヒートの味を増幅させる。カウンターに降り注ぐグラス越しのピンスポットの光を眺めながら、今日子は明日からまた頑張ろうと思った。

音楽が流れている。
ボブ・ディラン
“Blowin' in the Wind”

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