izakaya

JR恵比寿駅東口を出てすぐの所に、いわゆるオシャレなイメージとはかけ離れた「恵比寿横丁」という昭和の雰囲気を感じさせる飲み屋街がある。新宿の小便横丁をほうふつさせる古めかしいその横丁は、実は創業が二〇〇八年と新しい。およそ二十店舗ほどがひしめく横丁はいつも多くの仕事帰りの客で賑わっている。

秋山和美は恵比寿横丁の牛タン屋さんでビールを飲み干した。小さなカウンター。グループ客に挟まれた和美は一人である。

シングルマザーの和美は先日四十二歳の誕生日を迎えた。
和美が働く会社は有り難い事に、子育てママに優しい環境を提供してくれている。一人娘の楓は春から高校に入学。子育てはひと段落してきたところだ。

娘の高校入学を機に和美は英会話を始めた。今日は実家から母が来てくれているので仕事を終えた後、恵比寿にあるスクールで英会話のレッスンを受講。「たまには羽をのばしなさい」という母のありがたい言葉を受け、英会話の後に一杯飲んでから帰宅しようと考えた。これまでの子育ての奮闘からすれば考えられない程の贅沢である。

この先、娘が大学を卒業するまではワーキングマザーとして頑張るつもりだが、その後の事はまだ何も考えられていない。仕事と家事、常に目の前の事で一杯いっぱいなのである。

よく冷えたビールをおかわりして、もう一口グっと飲んでみる。仕事帰り、そして英会話を終えた後にお店で飲む冷たいビールは五臓六腑に染み渡る。つまみに頼んだハラミ焼きには青葱と胡麻がたっぷりかかっていて、ビールのあてとしては中々の一品である

「さあて、これからも頑張らなきゃな~」

一人呟き、牛ハラミを口に運び、ビールを味わう。周りを見渡すと若い女性が意外と多い。二〇代後半の遊び盛りといった所か。一方の和美もずっと働いてきたからか見た目は四十代と思えないほど若々しい。

「フー。いいよねー。人生これからだよね」

楽しそうに語らう若い女性を見て、思わず羨望の眼差しを送る。和美は時々自分の結婚は少し早過ぎたのか、と思う事もあるが生まれた娘の事を考えるとこれで良かったと思わざるを得ない。違う選択肢を選んでいたら娘の楓は生まれてこないことになる。

二杯目のビールを飲み終え、レモンサワーを注文する。
ぶっきらぼうな若い男の店員は、作り終えたばかりの熱々のだし巻玉子を和美の前に差し出しながら無言で注文を受ける。この店では溶いた玉子の中に細かく切った牛タンが混ぜられていて塩味が増して味わい深い。

そういえば今日の英会話は楽しかった。鞄の中にしまってあった教材を取り出しもう一度レッスンを振り返る。学生時代は英文科に在学。海外留学もしてみたかったがそこまでの勇気はなかった。英語は興味のあった分野だけにいつもレッスンは楽しい。様々な国の講師が語ってくれる話を聞くと、まるで海外に行ったような気分になる。

「このまま英語を頑張って、海外駐在を狙っちゃおうかな」などと夢を膨らませてみる。

生レモンを絞ったジューシーなサワーを飲みながら、そんな事出来る訳ないか・・と自嘲気味に笑ったところで携帯がメッセージを受信した。
メッセージは娘の楓からである。周りの若い女性の笑い声と喧騒をBGMにしながら、ほろ酔い気分でメッセージを読んでみる。

ハロー!今日はゆっくり羽を伸ばせているのかな?お婆ちゃんが今日はゆっくりしてきてもらうって言ってたのでゆっくりしてきてね。ところで英会話のレッスンの調子はどうですか?楓も学校の授業で英語を頑張ってるよ。いつか一緒にヨーロッパの国々を回ってみたいですね。意外と留学とか!(笑)その為にママも英語とお仕事頑張って。楓も勉強と部活、がんばります。じゃあね。おやすみ!

大した内容でもないのに、涙が出てきたのはお酒がまわっているからだろう。なるほど、まだまだこれからか。人生百年時代っていう人もいるもんね。半分もきてないわ。などと考えながら何度か読み返し、ひとしきりウルウルとしていたら、店員が新しい生レモンサワーを目の前に置いた。
「良かったらどうぞ。店のおごりです」
言いながら若い男の店員は、無表情のまま焼き場に戻り、牛タンを焼き始めた。

レモンサワーを一口飲み、釣るされた古めかしい裸電球を見上げ、和美は、メッセージの返事を打ち始めた。

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